バブルの勢いで登場するも1代で消滅! 時代に翻弄された「インパクト大」のスポーツモデルたち

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この記事をまとめると

■バブルの頃に登場して一代で終わってしまったクルマをプレイバック■クルマとしては凄いモデルが多かったがセールス的に厳しかったのが最大の理由だ■一代で終わってしまったが今でも熱狂的なファンに愛されている名車も多い

バブル景気だからこそ登場したスペシャルマシンたち

 2022年3月には、ホンダS660というスポーツカーが一代限りで、その使命を終えた。間もなくフラッグシップスポーツカーであるNSXも生産を終えようとしている。思えば、1999年に誕生したS2000、1991年に生まれたビートなど、ホンダのスポーツカーは一代限りとなってしまったケースが少なくない印象がある。 それ以上にバブル期を代表する「失われた存在」として思い出すのがマツダの5チャネル販売網によって生まれた「ユーノス」や「オートザム」、「アンフィニ」といったブランドだ。 ユーノス・ブランドでは当時ユーノス・ロードスターとしてライトウェイトスポーツカーというマーケットを世界的に拡大させた名車もあったが、逆にコスモというマツダのロータリースポーツにおける原点といえる名前を最後にすることなってしまったユーノス・コスモというモデルもあった。この2台は、ユーノス・ブランドの功罪を象徴する。 さて、1990年に生まれたユーノス・コスモは、いま見ても美しい流麗な2ドアスポーツクーペ。世界初のGPSナビを標準装備したグレードがあったことでも歴史に残る国産クーペだが、なにより唯一無二の3ローターエンジンを積んでいたことで伝説となっている。「20B-REW」型3ローターの総排気量は1962cc、当時V12エンジンを超えるスムースネスと称されたが、トランスミッションは4速ATの設定しかなく、スポーツクーペというよりはラグジュアリークーペという位置づけだった。そんなユーノス・コスモは、後継モデルを生み出すことなく6年ほどでモデルライフを終えてしまった。それは1967年にはじまったマツダ・コスモの系譜が終了したことでもあった。 同時期のマツダ車として忘れられないのがオートザムAZ-1だ。1992年に誕生したミッドシップ&ガルウイングドアのマイクロ・スーパーカーは、マツダが最後に設計したオリジナルの軽自動車ともいえるモデルだ。 もっとも、そのエンジンはスズキから供給されたものであったが、アルトワークス由来の「F6A」DOHCターボエンジンと5速MTは、軽自動車最強ユニットであり、マイクロ・スーパーカーにふさわしいパワートレインであった。 そんなAZ-1は1995年にモデルライフを終わらせてしまった。その理由については諸説あるが、ともかく思うように売れなかったことが根本的な原因だ。

魅力満載でもセールス的には正直厳しかった

 なぜ、売れなかったのだろうか? AZ-1に乗ったことがあれば、誰もが直感的に理解しているだろうが、とにかくハンドリングがキレキレで、手練れのドライバーでも安全に走らせることが難しいレベル。高速道路で加速中にステアリングインフォメーションが希薄になる(リヤ荷重になり過ぎてフロントが浮き気味になる)特性は、かなりスリリングと感じたものだ。逆に、そこに唯一無二の楽しさを見出せばほかに選択肢はなくなるほどの魅力はあったが、当時はライバルが充実していた。 それこそが、よく知られる「ABCトリオ」である。AZ-1のA、冒頭で紹介したビートのB、そしてスズキ・カプチーノ(Cappuccino)のCといった軽自動車スポーツカーはABCトリオと呼ばれるようになった。 そんなカプチーノも、じつは初代だけでモデルライフを終えている。あらためて振り替えると、カプチーノの誕生は1991年、1998年に生産終了となるまで、約2.7万台が販売された。この台数からもわかるように、ビジネスとしては成功したとはいいがたく、一代限りで消えたスポーツカーとなってしまった。 そんなカプチーノの特徴は、フロントにエンジンを縦置きしたFRプラットフォームであること。アルミ製のルーフは脱着式でクローズ/Tバールーフ/タルガトップ/フルオープンと4通りのアレンジが可能となっていたことだ。 さらに、ABCトリオの中では唯一、ビッグマイナーチェンジをしたモデルでもある。前期型は鋳鉄ブロックのF6A型エンジン、後期型はアルミブロックのK6A型エンジンとなったことが、もっとも大きな違い。トランスミッションは前後期で5速MTを基本としながら、K6Aエンジンには3速ATも用意したのが特徴。これは、ABCトリオとして正規に生産された唯一のAT車でもあった。 これらのモデルが生産を終了した1990年代は、いまでいう「失われた30年」が始まった時期といえるが、後継モデルを失うだけでなく、販売網やメーカーとしてのビジネス撤退といったところまでつながってしまったのが「PAネロ」だ。 1990年から1995年まで日本で販売されたPAネロを生産していたのは、いまや乗用車生産をしていない「いすゞ」で、販売は輸入車販売の雄「ヤナセ」の専売であった。その背景には、当時のいすゞの大株主であり、アライアンスパートナーといえるGM(ゼネラルモーターズ)との関係もある。キャデラックを大きく扱っていたヤナセで、いすゞのクルマを売るという流れは、PAネロ以前から存在していた。 そもそもPAネロは、北米市場でGMが展開していた「ジオ」という販売チャネルで扱うモデルとしていすゞが開発したもので、いわゆる5ナンバーサイズのボディに4気筒エンジンを横置きにしたFFクーペ。カリカリのスポーツカーというわけではなく、日本でいうデートカー、北米でのセクレタリーカーといったカテゴリーのモデルだった。 PAネロの歴史におけるトップグレードは、最高出力180馬力の1.6リッター4気筒ターボを積んだ「イルムシャー160R」。駆動方式は4WDで、走りの実力は相当に高かったが、スポーツカーとしての選択肢としても、ほとんど注目を集めることはなかったと記憶している。※写真はNAモデルに搭載された4XF1エンジン 結果としてPAネロは「いすゞが作る乗用車」、「ヤナセで売るいすゞ車」として最後の世代となってしまった。さらに、GMが「ジオ」チャネルを廃止したこともあって、いろいろな意味で“一代限りで最後”のモデルとなってしまったのだった。

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